スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

密やかな再生の夜

今夜は、中秋の名月
なのに、空には分厚い雲、叩きつける雨嵐。
そういえば、去年のこの日も、この人の噺を聴いていたな。あの夜の月はきれいだったなぁ。
ふと思い出しながら、池袋は東京芸術劇場へ。

談春七夜の「第四夜」
私にとっての初日です。
今宵の御題は「緋」。和紙に刷られた口上には、「男で女が変わり、女が男で変わる、良くも悪くも」
そして「悪縁と呼んでもいいような、そんな二人を語ってみたい」との言葉。

中入り後、花柳界の逸話を枕に始まったのは、はたして「たちきり」。
そうか、そうきたか。

「たちきり」は、恋に堕ちた若旦那と芸妓の悲恋物語
上方由来の人情噺で、今でも大阪では大真打しか演じない難物のひとつである。この噺、たしかに涙を誘うラブ・ストーリーではあるものの、物語として見た場合、かなり「綻び」があるのも事実。その破綻が、現代の観客にとっては興ざめの一因になっていて、聴くたびに鼻白んでいたのですが。
師は、この「綻び」をみごとに繕ってみせた。若い二人の悲恋を「母の噺」に仕立たのです。
愛する娘を失った母親と、恋人を死なせてしまった男。二人の「再生」に力点を置いて、ひっそりと置屋の情景を描き出す。<
そう、問題は、あとに残された者なのだ。
いつの時代もそうなんだよ。娘を焦がれ死にさせた憎い男を前しての母親の台詞、これが胸にしみる。
「若旦那、ひとは、いいことも悪いことも、忘れないと生きていけないものなんですよ」

「忘れないと……」とは、だれでも言える。が、「いいことも」ってのが、すごい。胸を突く。

このやりとりを聴いて思い出したのが、秋元松代の戯曲『近松心中物語』。
梅川が死に忠兵衛も死に、愛するお亀も逝かせてしまい、ひとり無惨に生き残る与兵衛。乞食坊主に身をやつし、この世の底へ落ちぶれても、それでも……「もう少し、生きてみる」と狂奔の娑婆へ一歩踏み出す、あの後ろ姿である。

人生とは、まさに喪うことの連続。愛する人を喪って、息も絶えるほどの哀しみに絡めとられても、それでも、人間は生きていくものなのだ、と談春「たちきり」の母は、静かに背中を押す。

「悪縁なんですよ」「宿命だったんです」
己に言い聞かせるように、娘の死をふっきる母。そして、若旦那にこう放つ。「この玄関を出たら、小糸のことは忘れてください」

「たちきり」とは、線香の消え入る瞬間などではなく、いいことも悪いことも、断ち切ることでしか生きていけない人間の性、そのもの、という解釈である。

なんという哀しみ。そして、なんという慈しみであろうか。

これまで東西幾人もの「たちきり」を聴いてきたが、哲学の森に分け入るような、こんな高みを見せた演者はいなかった。ただの古いネタだと思っていた噺が、創意と工夫と演者の力量で、こうも鮮やかに再生するものなのか、と衝撃を受けてしまう。
(同時に、モノを書く人間としては、猛然たる嫉妬も湧き上がってきましたが)

こんな高座に出会えるなんて、生きてきて良かった。ちょっと大仰ですが、これ、美辞麗句を一切抜きにして真っ正直な感想です。

人間は「いいことも悪いことも忘れないと生きていけない」のだろうけど、私は、今夜の噺、一生忘れないと思う。