スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

ぬらりひょん落語

bluesnake2007-02-18



「当代落語家の中から、ひとり選んで考察せよ」


もし、そんな原稿依頼が舞い込んだら「この人だけは勘弁願いたい」という落語家がいる。


春風亭昇太だ。


華やかで明快。抜群におもしろい人気者。古典新作とも自在に操る売れっ子。対象としては何の不足もない。しかし、これほど「つかめない芸人」はいない。いや、何をつかんでいいのか、それすら分からない。分からせてくれない。ヌエのような存在なのである。


話はそれるが、能に「猩々(しょうじょう)」という曲がある。舞台は揚子江のほとり。謎の妖精・猩々が、水の底からぬらりと姿を現す。ひとしきり酒を飲んで舞い戯れては、水中へと帰っていく。30分ほどのたわいもない一場もの。微笑ましい名作である。


だが私には、これほど怖い曲はない。猩々は一見、純真で陽気な生き物に見えるが、その実、得体の知れぬ不気味さを秘めている。そして、得体の知れぬ感触こそが、ただならぬ魅力だったりするのである。


私は、昇太の高座に見るたびに、いつもこの猩々を思い出してしまうのだ。ゆえに昇太落語は難物であり、ゆえに価値ある対象であることは間違いない、と思い続けてきた。


その昇太落語に、立川談春が挑むという。下北沢演芸祭。「春風亭昇太トリビュート」なる企画。


談春の「B面」を見てやろうという好事家(?)で、会場の下北沢「劇」小劇場は満員。劇場というより、稽古スタジオを思わせる、ほの暗く、アンダーグラウンド感あふれる小空間は、一夜限りの祭にふさわしい。


高座に現れた談春師。開口一番、苦笑いを放つ。「23年落語家をやってきましたが、今日ほど気が重い会はない」「金輪際、未来永劫、生きている限り、二度と演ることはないでしょう」。まったくうれしそうにマクラを振る。そして、昇太にまつわるエピソード。これが、実に秀逸な「昇太落語論」だった。


いわく。昇太の高座は一見、天衣無縫に見えるが、さにあらず。あれほど計算の行き届いた落語はない。いま東京に落語家は400人いるけれど、あの人(昇太)ほど稽古をしている落語家を知らない。


談春師、最初は昇太の古典落語を演ろうとしたものの、太刀打ちできなかったそうだ。たとえば、昇太がよく見せる膝立ちの姿勢。観客には、一見、なにげない所作に思えても、すべてが計算され尽くされており、一朝一夕の稽古では、とうてい体得できる動きではないという。「あれだけ稽古してるのに、どうして下手なんでしょうね」。笑いをとりつつも、落語を「下手」に演じること、その脱線具合で観客を楽しませるのも、すべては稽古の賜物なのだ、と談春師は見抜いている。まさに慧眼。


きっとそうだろう。昇太という人の可笑しさは、壮絶な努力に下支えされているのだろう。満座を笑いで包む高座を見るたびに、うっすらと感じてはいたが、やはり、そうだったのか。


今回、昇太落語に挑戦してみて、あの人の凄さを改めて痛感したという談春師。その観察眼によって、ナゾの猩々であった昇太落語の「尻尾の毛の一本」程度は、つかめた気がする。


とまぁ、とりとめのない話になってしまったが、談春師にしては屈託のない、ストレートなマクラに続いて始まった落語4席(!)これが、なんといおうか、じつに考えさせられるシロモノだったのである。


立川談春春風亭昇太トリビュート」(夜の部)ラインナップは、以下の通り。
※力士の春
※落語家の春
※おしっくら
※愛犬チャッピー

特筆したいのは「落語家の春」。外題からお分かりだろうが、昇太の十八番「力士の春」のパロディ・スタイルを採った談春版「現代落語家論」というべき一席。志ん朝ファンの父と談志ファンの母をもつ「松岡・美濃部・克由」、略してミノカツくん。名人を目指して幼少期より英才教育を受けるも、弟子入りするのは、あこがれの古今亭一門でなければ立川流でもない。


なぜか。


その理由に、うなりましたね。一夜限りの無礼講なので内容は書かないけれど、今の落語界の様相を的確に表した、その観察眼は、鋭い。


その後、なぜか円楽党に入門するミノカツくん。しかし、厳しい修業に耐えきれず、実家へ舞いもどってしまう。彼を叱咤する父のセリフにも膝をポン。「いまほど落語をやりやすい時代はないぞ。見てみろ、志の輔、昇太、喬太郎談春、たい平、志らく、白鳥、彦いち、みんな方向性がバラバラじゃないか。カブッてないんだから」(爆笑)


考えてみれば、そうだ。みごとなまでのバラバラぶり。ベクトルが四方八方へ向かっているのだから、入り込む余地は十分にある、ということか。
たしかに、この無軌道なエネルギーが、いまの落語を下支えしているのだろう。でも、それは芸能として幸せなことなのだろうか。


などと、いろんなことを考えさせられた、という点でなかなか秀逸な「創作」落語だった。


「愛犬チャッピー」は、ほとんど「天地会」のノリ。柴犬のはずのチャッピー、談春が演じると、ドーベルマンにしか見えないことに笑ってしまう。怖いけれど、愛らしい。談春七夜で満座の観客を感動させた超本格派の俺が、あろうことか、チャッピーだぜ。そんな「喜び」が横溢した一席。一番楽しんでいたのは、当の本人ではないだろうか。


会場はキャパ100人の小さな空間。久々に(5年ぶりぐらいか)マイク無しの談春の高座だった。なのに、これが息苦しくて仕方がない。微妙な緊張感を強いられる。かつて、同規模のお江戸日本橋亭で開いていた月例独演会では、そんな印象はまったく受けなかった。濃密な因果噺をかけても、ここまで気が張りつめる、ということはなかったのである。


あぁ本当に、頭抜けて成長したのだな、この人は。そう体感できたことが、最大の収穫。