眩しき瑠璃色
重病疑惑で悶々とした日々を送った結果、かなり長い間、ライブと名のつくものへ参じてないことに気がつく。数えてみれば70日間、栄養なしの生活でした。
で、本日、ようやく地上へ復帰。久々に劇場へ足を踏み入れ、高揚した客席の空気にふれると、あぁ、生きて帰ってきた、と素直に思う。大袈裟ですが、本当にそんな心境だったのですよ。
立川談春独演会。
舞台中央に瑠璃色の毛氈。白銀色の座布団。立川流おなじみの配色。見慣れたはずの設えなのに、今日は一段と眩く、目に染み入る。なんてきれいな色使いなのだろう。
ふと思う。落語の独演会は、演劇や音楽のライブと違って、セットもBGMも照明効果も、ほとんどない。演者が頼れるものが皆無に等しい。あるのは己の身体ひとつ。技芸のみ。それだけに、体調の善し悪しはおろか、心の中身まで恐ろしいほど観客は察知してしまう。そんな状態で二時間ものひとり舞台をつとめあげるのだから、落語家という職業は、想像を絶するほどの負荷を心身にかけ続けて一生を過ごさなければならない。技量や才覚はもちろん、頭抜けた胆力を持つ人間でなければ、生き残れないのだろう。
とまぁ、師の軽やかな調子を聴きながらも、つい考えてしまうのは、この職業の過酷さについて。体調のコントロール、大変だろうな。どんなに具合が悪くても、自分の会となれば、キャンセルの仕様がない。不調のときは、どう凌いでいるんだろう。倒れたことは、ないのだろうか。そんなことばかりが気になってしまう。
いやいや、私の心配など、どこ吹く風よ。本日の談春師匠は、もう絶好調。余裕の高座で、中入り後には、難曲「九州吹き戻し」を”さらりと”演ってくれました。最近は、なんだか大人(たいじん)の風格が漂っているなぁ。