スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

愛が見えない

bluesnake2008-09-11



今年は年頭から「舞台運」がいい。不思議なぐらいダメな作品に当たらなかった。ところが、ここへきて壮絶なハズレをひいてしまいました。


新橋演舞場の8月公演「幕末純情伝」


つかこうへいが商業演劇の老舗に乗り込む。名作「幕末純情伝」を18年ぶりに自ら演出する。元宝塚トップスターの真琴つばさ大衆演劇の若手女形橘大五郎、ザ・コンボイの舘形比呂一など、多彩な人気者が出演する……とくれば、芝居好きは期待しちゃうじゃないですか。器をひろげ、外部の風を入れることで、どんな異化効果を見せてくれるのか、と。


つかこうへい。私は熱烈なファンではないけれど、1980年代から代表作は一応観ている。その度に、圧倒されたり、哀切な心情が胸に沁みたり、この劇作家のパワーと毒味を享受してきた人間のひとりである。つかさんの作品には、今まで裏切られたことはなかった。けれど、今回ばかりは感動も余韻も何もないんですよ。観劇から三週間たったいまでも落胆したまま。この暗雲を消し去るためにも、余計なお世話ながら、敗因を考えてみることにする。


つか芝居は舞台装置や照明がシンプルな分、セリフへの比重が大きい。「話芸」といってもいいほど、独特のセリフ術を要求される。ところが、今回の舞台では「つか組」と「非つか組」の役者が入り交じったため、セリフ咀嚼力にかなりの差ができてしまった。沖田総司役の石原さとみは、健闘していたけれど、舞台の基礎ができてないので、速射砲のようなセリフが消化できてない。二階席に座っていると、何を言っているのかわからない箇所が多々あり、これは辛かった。


残念だったのが、坂本龍馬役の真琴つばさ。舞台の真琴さんを観るのは初めてだったので、ひそかに期待していたんですが……男役の声で、あの饒舌なセリフをこなすのは、やはり相当の難物なのね。平板で抑揚がないのですよ。喉の調子も良くなかったのか、セリフ不明の箇所があり、私の後方に座っていたおばちゃんなど「なに言ってるのか、わからな〜い」と上演中に突っ込む始末。西郷隆盛役の舘形比呂一も、基本がダンサーなので、発声はいま一歩。舞台映えするビジュアルだけに、もったいない。


メインキャストが苦戦を強いられる一方で、「つか組」の山崎銀之丞武田義晴は、さすがだった。特に山崎さんは長年鍛えあげたセリフ術で底力を見せつけておりました。これが、唯一の収穫。銀ちゃん=龍馬で良かったのでは?


こんなふうに主要キャストに技量の差が生じれば、舞台がギクシャクするのは当然。役者の力量云々ではなく、演出の不備であり、キャスティングの問題だと思う。


そして肝心カナメの脚本。「幕末純情伝」は初演からどんどん変化を遂げ、様々なバージョンが生まれている。今回は従来の筋に、憲法九条、普通選挙制度、イラク戦争沖縄戦、農村の貧困といった要素が放り込まれ、かなり壮大なものになっていた。時制も空間も入り乱れたカオス的世界から物語を構築していくのは、つかこうへいの常套手段なので、たとえ沖田総司天皇の落とし胤だろうが、女優としてハリウッドからスカウトされようが、構わない。でも、今までのつか芝居は、どんなに多様なエッセンスを盛り込んでも、最後にはちゃんと「愛の力」へと収斂したのである。


理論的には破綻していても、そんなことはどうでもいいと思えるほど、心揺さぶられる愛を見せてくれるのが、つかこうへいの真骨頂。それがね、なんだろう……愛が見えないのよ。今回の脚本には「沖田総司が女だった」というネジレを、さらに超越するような「秘密」が込められていた。着想自体は面白い。とても面白いんですが、この「秘密」が舞台で消化されることなく終わってしまう。部分的には、胸に沁みるセリフがあったものの、バラバラの糸が紡がれることなく、バラバラで終わってしまった感じ。幕が降りた瞬間「えっ、これで終わり?」と脱力しましたよ、久々に。せっかくの演舞場なのに、花道やセリの使い方も平板で、劇的効果につながっていなかったし。


休憩時間からロビーには微妙な空気が漂っていて、終演後は、どんよりとした顔つきで劇場をあとにするお客さんが多かった。つかこうへいのファンはもちろん、久々の男役ということで期待を胸に駆けつけた真琴つばさのファン、演舞場の板に上がるときいて馳せ参じた橘大五郎のファン、そして、異種コラボを期待をして高いチケットを買ってしまった演劇ファン(私はこれ……)その誰もが、がっかりさせられた失敗作だと思う。かなりネガティブ・モードですが、分析の意味もこめて、書かせていただきました。


つか芝居は、休憩を入れるな。
つかのセリフ術を体得した役者を使え。
そして、緊密な空間で上演すべし。