スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

楽で聴く喬太郎(2)

bluesnake2008-12-22



「カマ手本忠臣蔵」を終え、中入りへ。あけて後半、やや抑えめにはじめたのが、三道楽のマクラ。呑む、打つ、買う。江戸の男の遊びとくれば、あとに続くのは……



文七元結


師走だし、記念の会だし、もしや…という期待はあったんですが、フルバージョンの「道灌」、濃厚な「カマ手本」、そのあとに、よもや「文七」をもってくるとは!


驚きの「文七元結」でした。未聴の方は、ぜひとも生の高座で体験していただきたいので、ここから先は読まないでくださいませ。


喬太郎版「文七元結


正式には「文七元結(改作)」の名で高座にかけているとのこと。改作と銘打つものの、時代設定も登場人物も円朝の原作とほぼ同じ。


バクチ好きが高じ、借金で首がまわらなくなった左官の長兵衛。窮状を見かねた娘・お久が、わが身を売って金をこしらえようと、吉原の遊郭へ駆け込む。そこへ呼び出される長兵衛。女将の計らいで、どうにか五十両を借りることができる。返済期限は、翌年の大晦日。もし一日でも過ぎたら、娘は店に出なければならない。客を取らねばならない。


ここまでは通常と同じ運び。しかし、このあとが意外な展開。


娘を人質に借りた五十両。それを懐に長兵衛は、そのまんま本所達磨横丁の家へ帰ってしまうんですね。えー、どうなるの?


次の場面は、なんと一年後の大晦日。心を入れ替え、がむしゃらに働いた長兵衛は、どうにかこうにか五十両を貯めている。返済期限の日を迎えているんですね。今日中に吉原へ迎えに行かねば、娘のお久は遊女になる。一刻の猶予もない。切羽詰まった状態で吾妻橋へと急ぐ長兵衛。ここで待ち受けるのが、身投げ男の文七という流れ。


つまり、長兵衛が文七にやってしまうのは「娘がつくった」五十両ではなく、「自ら働いて貯めた」五十両というわけ。これね、本当に大きなポイントですよ。


文七元結」という人情噺は、確かに名作ではあるものの、よくよく考えると、鼻持ちならないストーリーであるのも事実。なにせ、娘がつくってくれた金を見ず知らずの他人にやってしまう男が主人公なんですから。もちろん、それこそが江戸っ子の美学。その美学を極めてみせるのが、この噺の核心なんだけど……しかし、所詮は「娘のおかげ」。長兵衛が吾妻橋でどんなに煩悶しようとも、どんなにカッコイイ啖呵を切ろうとも、「でもそれ、あなたがつくった金じゃないよね?」という想いが、うっすらと滲んでしまうんですよ、私は。


喬太郎は、この瑕疵を、うまく繕っている。長兵衛は必死に働く。汗水垂らして五十両を貯める。長兵衛という男が、成長しているのである。ゆえにこの男、現代人にも共感できる人物になっているのである。


そして、ドラマも深い。期限の大晦日、五十両を本日中に返さねば、娘は苦界へ沈んでしまう。ギリギリの状況設定。物語として格段におもしろくなっているのである。


あぁ、こういう手があったか。やられたな、と思いましたね。


加えて、長兵衛が懐にしのばせているのは、小判ではない。日々の小銭を貯めたもの。だから、ずしりと重い。喬太郎版は、この重量感を、後段にまで実にうまく生かしている。


吾妻橋での説得シーンでは、五十両を紛失してしまった文七に「必死で働け。働けばなんとかなる。俺だってできたんだから」と絞り出すように諭す。ずしりと響く。そして、死にたいと泣き続ける文七に、ついには言い放つ。「死ね、死んでしまえ!」と。これも、一年辛抱した長兵衛だからこそ成立するセリフ。出色。


その後、長兵衛は文七に五十両を投げつけて去って行く。娘が待つ吉原を前にして、吾妻橋を引き返さざるを得ない無念。すべてが終わった大つごもりの宵。


場面は近江屋へと変わり、宵が過ぎて行く。あけて新年、達磨横丁へと向かう文七と近江屋主人。晴れやかな元日も、もはや長兵衛には、どうでもいいこと。なぜなら、もう約束の期日は過ぎてしまった。娘は帰ってこないから。そんな沈鬱な空気を醸し出して、喬太郎は最後の最後まで緊張の糸をつないでいく。お久は、どうなったのか?


甘く流れない、余分なセリフを極力省いたラスト。それでいて涙を誘わずにいられない最後の着地っぷり。見事のひとこと。いやー、泣いた。泣けましたね。久しぶりに落語を聴いて、大泣きしました。


評価の定まった古典の「構成」を変えることがいいことなのかどうか、正直言って私にはよくわからない。しかし、そういう疑問は、この際ぜんぶ棚上げして、この喬太郎版「文七元結」は傑作だと断じたいです。ストーリーテラー喬太郎の、ひとつの到達点ではないかと思う。