スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

もったいない

武生へ行く前に、宝塚で月組『ラストプレイ』を観た。瀬奈じゅん氏の退団公演なので、がんばってチケットをとったのだが、ううむ……。以下、辛口感想ですので折りたたみます。


『ラストプレイ』。こんな中途半端な芝居はひさしぶりに観た。この生煮え作品で宝塚を去っていく瀬奈さんが、気の毒で仕方ない。


主役は孤児院育ちの天才ピアニスト(瀬奈じゅん)。相棒はムショ帰りの孤独な男(霧矢大夢)。この二人の出会い、友情、再起、そして旅立ちがストーリーの基軸。そこに、裏社会との応酬、発砲事件、記憶喪失、誘拐劇などドラマティックな要素が次々と絡んでいく。


こう書くと、いかにも波瀾万丈な物語だと思うのだが、これがまったく盛り上がらず。1時間35分、ダラダラと進んで、あっけなく終幕。えええ、これで終わりかい! 思わず舞台に突っ込んでしまった。


舞台なのに、モノローグ(録音)多用。
中途半端なコメディパート。
緩急なさ過ぎ。
セリフが凡庸。
多層性がない。
視覚で表現できてない。


原因は多々あるのだけれど、最大の問題は、脚本が「脚本になってない」こと。ファンブログにも書かれていたのだが、「あらすじ」をそのまま舞台に乗せてしまったかのようなメリハリの無さだろう。「絵日記」と表現している方もいたが、まさに出来事を時系列に並べただけ。料理にたとえるなら、材料を皿にのせて、そのまんまお客に出してしまった状態だ。味付けも盛りつけも工夫もなし。普通は、あらすじを整理し、テーマを絞りこみ、ヤマ場を設定し、そこからの逆算で劇を構築するのではないだろうか。その手腕こそが、プロの仕事のはず。もし、フリーの脚本家(世の大多数の作家はフリーランスです)が、この脚本を舞台にかけたら、二度とお呼びはかからない、と思う。


突っ込みどころを一ヶ所あげるなら「記憶喪失から回復する場面」だ。主人公の元ピアニストはマフィアに誤射され記憶を失ってしまう。仲間たちの懸命の看護で傷は癒えるものの、記憶は戻らず。そんなある日、療養先で偶然ピアノの音を聴き、吸い寄せられるようにピアノを弾きだす。


この青年にとって、ピアノは「トラウマ」を象徴する。長い間、恐れ、遠ざかっていた鍵盤にふれたことで心の中で何かが昇華され、その結果、一気に記憶が蘇ってくるのである。


劇としては、どう考えても重要な見せ場のひとつ。なのに、ここがモノローグ処理なのだ。ようやく記憶が回復した、という事実の見せ方が、主人公の独白(録音)。「ある日、僕の記憶がよみがえった…」って、なんですか、それ?


どれだけでも感動的にできるはずだよ、この場面。


宝塚は座付き作家制度である。当然、傑作もあれば駄作もある。バラツキはあって当然。毎月、新作を作っていくのも並大抵の苦労ではないだろう。でもなぁ、あのクオリティでよくGOサインが出せるなあ、劇団首脳陣。一本一本が常に正念場のフリーランス人間としては、なめんなよ、と申し上げたい。そんな気分。


いや、問題なのは、あくまでも脚本と演出。瀬奈さんをはじめ月組諸氏は良かったです。ぐだぐだな脚本なのに、お金をとれる舞台になったのは、演者のがんばりあってのことだろう(涙)


個々人の演技については、別項にて。