スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

『ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム』

衝撃の一冊でした。

 

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1945年(昭和20年)8月の原爆投下により、焦土と化した広島と長崎。

 

広島には原爆ドームという遺構が保存されているにもかかわらず、長崎には何もない。離れた場所に、後で建てられた平和祈念像はあるものの、投下地点には何も残されていない。

 

この謎を追ったノンフィクションである。

 

実は米軍の計画では、長崎の原爆は市街地の中心部に投下する予定だった。ところが、500メートルも離れた浦上天主堂の上空で炸裂してしまう。

 

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浦上天主堂は、高さ25メートルの双塔の鐘楼を持つ「東洋一といわれる教会」だった。1895年(明治28年)に着工し、30年の歳月をかけて1925年(大正14年)に完成。長崎でも、特に信者の多い浦上地区のシンボルとして、守り継がれてきた「聖地」だった。

 

有名な話だが、長崎は投下リストには載っていなかった。8月9日(投下日)でさえ、小倉に次ぐ第2目標でしかなかった。

 

ご存知の方も多いと思うが、広島に投下された原爆は、ウラニウムを原料にしており、構造は比較的簡単な構造だった。しかし長崎は、プルトニウム型のため内部の構造が複雑で爆発の威力も強力。あまりに造りが複雑なので、安全装置をはずし、発火状態のままで機体に取り付けなければならない。そのため、非常に高度な飛行技術を必要としていた。

 

構造の違いに加えて、長崎投下は天候面でもトラブルに見舞われる。

 

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8月9日未明、テニアン島から出撃した3機のボックスカーは、悪天候のために高度9000メートルを飛行せざるを得なくなる。(広島は、2400メートルだった)。高度が高くなるほど燃費は悪くなる。しかも夜明け前。視界は非常に不良だった。

 

9時45分、小倉上空に到着するが、目標地点(軍需工場)が見えない。というのも、前夜に八幡製鉄所への爆撃で火災が発生し、大量の煙が上空に残っていたのだ。

 

やむなく投下を断念。すでに燃料は底をつき始めており、米軍基地のある硫黄島へもテニアンへ帰るのも不可能な状態だった。

 

そこで急遽、第2目標の長崎に向かう。

 

が、長崎も雲に覆われており、地上の様子はほとんど分からず。

 

偶然にも、雲の切れ目があったため、そこに原爆を投下することに。

 

地上にあったのが、東洋一の大聖堂、浦上天主堂だったのである。

 

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このアクシデントは、すぐにアメリカ政府に伝えられる。あろうことか、教会の真上に落下するとは! なんとしても、この事実を知られたくない米国は、手の込んだ画策を始めていく。

 

廃墟となった浦上天主堂は、当初、広島の原爆ドームのように保存されることになっていた。当時の長崎市長、田川氏も最初は、保存の意向だった。

 

ところが、終戦から10年を経た1955年(昭和30年)、事態が変わっていく。

 

アメリカからセントポール市と姉妹提携を結ばないか、という申し入れが長崎に届いたのだ。長崎市の財政は苦しく、渡米は困難と伝えたところ、アメリカ政府が費用を一切負担するとのことで、贅沢な渡米が実施される。この懐柔により、長崎市長は心変わりをしていく。

 

そして、浦上天主堂の取り壊しが決定する。

 

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かいつまんで書くと、こういう流れだ。

 

著者の高瀬毅さんは、アメリカの公文書館まで調査に赴き、膨大な資料から、この事実を突き止めていく。「知られざる事実」が多数載っており、気の遠くなるような調査報道に、頭が下がる思いしかない。