一滴の雨水 『猫を棄てる 父親について語るとき』
『猫を棄てる 父親について語るとき』(村上春樹著)を読みました。
村上春樹に不案内な私に、書評家の友人が奨めてくれた一冊です。副題にもあるとおり、村上さんが、初めて父親のことを書いた本。太平洋戦争で大陸へ出兵し、命からがら生き延びた父親。その戦争体験を詳らかにし、どんな人生を歩んだのかを、わかりやすい筆致で伝えています。
「猫を棄てる」というタイトルは、村上さんが子ども時代の体験が元になっています。
幼少期、西宮市の夙川に住んでいた村上少年は、ある日、父と一緒に近くの海岸へ猫を棄てに行ったそうです。なぜそうしたのかは定かでないが、猫を海岸に残し、親子が自宅へ帰ってくると、猫は一足先に自宅に戻っており、2人を驚かせたそうです。
(ちなみに、この猫は以後長い間村上家で飼われました)
この記憶を思い出し、長年、不仲で絶縁状態だった父のことを、ようやく書けるようになったそうです。
私の父は、51歳で他界しましたが、今頃になって、父がどんな人生を歩んだのか、ふと思い返す時間が増えてきました。
「時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある」という帯のフレーズは、まさに私の心境だと。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさり吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合体的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、虫をこういうべきなのだろう。それが集合体的な何かに置き換えられていくからこそ、と。」
村上さんの思いが込められた終章の、この一節が、やけに胸に沁みました。
文章もさることながら、随所に挿入されたイラストが、味わい深く、何かを物語ってくるようです。村上さんが、画風に惹かれたという台湾の高研さんの手によるものです。