このところ、ブログを更新できませんでした。
仕事が忙しかった‥‥という言い訳は野暮。
プロにあるまじきことです。
プロと聞いて思い出すのが、ものまね芸の第一人者、コロッケさん。
先日、大阪・新歌舞伎座で公演を見てきました。
コロッケさん、今まで歌手との共演が多かったのですが、今回はものまね芸人だけのステージ。ノブ&フッキー、ビューティ国分など、10組の芸人が集まっての公演です。
コロッケさん曰く「ものまねだけで3時間の公演は初めてで、最初は不安だった」と。
でもフタを開けてみれば、まったくの杞憂。手を替え品を替え、一切中だるみなく、フィナーレまで楽しませてくれました。
ものまね紅白歌合戦。今では見られない著名人シリーズ(チャゲ&飛鳥に爆笑)
なんと落語にも初挑戦。「初天神」を田中邦衛、淡谷のりこ、志村けんに扮しての高座で、実に見事でした。(落語もうまい!)
自分の出番だけでも大変なのに、後輩芸人のステージをすべて袖で見て、アドバイスをするとか(共演者談)。そのサービス精神にはいつも圧倒されています。
コロッケさんの舞台を見て思い出したのが、この本。
『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』古賀史健著
古賀さんは、かのベストセラー『嫌われる勇気』で知られる気鋭のライターです。
この本に、こんな一節があります。
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ライターは、ただ文章を書いているのではない。書くことを通じて、コンテンツを作っている。同じ書くでも、現代詩や純文学のような形式をとらない、けれども「コンテンツ」としか名づけようのないなにかを、ライターはつくっている。ここから議論を進めていこう。
最初にやるべきは、コンテンツということばの定義づけである。
ぼくは「エンターティン(お客さんをたのしませること)」を目的につくられたもの」は、すべてコンテンツだと思っている。
お客さんの存在を前提にしていること。そして、お客さんの「たのしみ」や「よろこび」に主眼が置かれていること。つまりは、自分よりお客さんを優先していること。この原則を守ってつくられたものは、すべてコンテンツだ。大衆文学、エッセイ、コラム、ハリウッド映画、ポピュラーミュージック、ゲームソフト、あるいはナイキの限定版スニーカーからビッグマックまで。ぼくにとってはいずれもコンテンツであり、ライターもまた同じ視点でサービスを提供している。
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「お客さんの「たのしみ」や「よろこび」に主眼が置かれている」
コロッケさんもそういう姿勢でステージに立っているのだろうと思う次第です。