スルメ日記

ライターのユッキィ吉田が「ゆるい日常」を綴っております。

青年は静かに狂う


久方ぶりに大阪へ。花の浪花の松竹座。恒例の夏芝居である。


大阪の劇場の特長は、なんといっても客席の熱っぽさだ。東京の歌舞伎座には、どんな演目がかかろうとも、どこか芸術鑑賞という空気があるけれど、大阪は徹頭徹尾、娯楽。それゆえ、お客さんは厳しく情が濃い。私は、この上方独特の温気を含んだ客席が、時たま無性に恋しくなって、せっせと西へ向かうのである。


今日も、実にアツかった。隣席には大阪のオバちゃんコンビ。近所のスーパーへ行くようなラフな恰好なのに、会話は三代目實川延若の思い出だったりする。推定観劇歴四十年。私など蹴飛ばされそうな大先達だ。


右隣は、父と息子の二人連れ。おとうちゃんが大の芝居好きらしく、歌舞伎に興味ゼロのいまどき高校生を引っ張ってきた様子。上演前は、かったるそうに番付(パンフレット)をめくっていた息子が、仁左衛門の「身替座禅」を観た後は、妙にそわそわしていた。


斜め前にも、父と息子のコンビがいた。会話の内容から、こちらは息子のほうが芝居にぞっこん。歌舞伎役者を目指しているらしい。見れば、いやあ、大した美形。色艶のある古風な面立ちだ。上方はね、実力の世界よ。御曹司だって技量が拙けりゃ大きな役は回ってこない。愛之助をご覧あれ。努力と才覚で今や若手のヒーローだもの。そんなエールをそっと贈る私。


さて、お目当ては「女殺油地獄」、言わずと知れた近松門左衛門の傑作浄瑠璃です。市川海老蔵が与兵衛に初挑戦するということで話題になっていたものの、ケガで休演。代演は、この人をおいて他にはいない、仁左衛門


これが、まぁ、すばらしかった。甘ったれで、いけずで、それでいて恐ろしい色香を漂わす二十三歳の河内屋与兵衛が、まぎれもなく目の前にいるのである。海老蔵も無軌道青年の役は似合うだろうが、仁左衛門ほどの狂気を醸し出せるだろうか。上方のボンは、どこまでも「柔」でなければならない。物腰やわらかく、しかし、眼差しは暴発寸前。涼しげに狂い堕ちていく。油地獄の与兵衛とは、そんな複雑な芝居を要求される難役なのだと、改めて思い知らされた。


この芝居、初めて観たのは、かれこれ十五年前。上方ではなく、東京の新橋演舞場だった。そのときは、惨殺シーンの壮絶さに驚くばかりだったが、再見してみて、実に緻密な心理劇になっていることに舌を巻いた。しかも、前衛なのである。今回、上方の空気の中で観て、油地獄が傑作と言われる所以が、わかりました。


終演後、道頓堀の本屋で『あやつられ文楽鑑賞』を購入。読めば、三浦しをんも「女殺油地獄」は、〈近松のすごさに、シャッポを脱ぐしかない名作〉だと絶賛しているじゃないか。無性にうれしくなってしまう。


残念ながら本家の文楽版は、いまだ観たことがない私。あぁ、早く観たいぞ。絶対に大阪でね。